第11話『メインストリームのためのニナ・コースト入門』



1990年代後半頃、ヘアウェイブ・レコードの音源はレーベルの規模や音源のクオリティによってレコード・ショップから締め出されていた。そのため、フローとヨコイは中古で購入した自動販売機にペイントやデコレーションを施し(DIYというよりはDIEといった趣きだった)、MDやカセットテープを販売した。ラインナップはTBO & The Appointmentsのセカンド・アルバム『Out of the Vomits』、カリフォルニア・ドーターの『オータム・ガール』、レーベルのコンピレーション・アルバム『hairwave records: various artists - 3 years of hairwave』(TBOやカリフォルニア・ドーターのほか、off-Loというふざけた名前のバンドもいた)の3種類だった。設置してから1年の間は毎日のようにチェックを怠る事はなかったものだが、在庫は一向に減ることはなく失望の月日が流れた。無理もない。レコード・ショップから締め出されたレーベルの音源が、道行く人々の興味を引くわけがない。
ところがここ半年から1年ほどで風向きが変わった。たまたま寒川のドライブインに立ち寄り、自動販売機のハンバーガーを食べていた新進気鋭のアーティスト、マハリシが興味本位でこのカセットを買った(「自販機のテクスチュアやストラクチュアがあまりにも狂気じみていた」とマハリシは言った)。マニアックなハードコア・パンク好きの彼はTBOのサウンドをいたく気に入り、出演するラジオ番組『ジャスト・ライク・ヘブン』の「今年の最高にクソイカれたサウンド・トップ5」でオン・エアしたのだった。マハリシは『パラノイア』というニュー・ウェイブな雑誌の専属モデルもしており、ポップで愚かなマインドの読者たちがヘアウェイブの自販機に雪崩込んで行ったのであった。その余波をうけて、カリフォルニア・ドーターのアルバムも売れた。もっとも、あの手の雑誌に影響を受けるようなティーンがTBOとカリフォルニア・ドーターの区別がつくとは思えないが(カリフォルニア・ドーターとTBOのアルバムを勘違いした思慮の浅い連中もいた)。一方、マハリシはカリフォルニア・ドーターを聴いて、21世紀の典型的なクソだと思った。フローは1年ぶりに立ち上げたマッキントッシュでメールをチェックすると、この世で起こりうる最も不思議な現象を知った。それらはレコード・ショップやリスナーからの問い合わせ、TBOへのファンレター、メディアの取材依頼のほか、苦情、爆破予告、フローに対する借金返済の催告、キリル文字で書かれた最高に危険なスパムメールなどだった。
世界は初めてヘアウェイブ・レコードを発見した。そのことで、長谷川ヨコイはシンプルに喜んだ。一方、フローは嫌悪感を隠そうとしなかった。まず、マハリシが何の断りもなくレーベルの音源を放送したことに激怒した。その後、インターネットの波でマハリシの画像を検索し、その道化師めいた風貌や芝居じみた行動から典型的な山師だと決めつけた。金髪に隠れた陰影のある顔立ちには尊大な自意識が、ボディペイントを施したかのようにタイトなスーツを着こなす骸骨のような細身からは偏執的な自己愛が感じられた。コイツもコイツのファンもまったく別の惑星に住み、病床に就きながら自分のケツの臭いを嗅いでいる不可知な生物だ。そんな奴に認められても何の意味もない。しかし、テープが売れて収益を上げることについては悪くない気分だった。その金で大量のビールが買えるのだ。
フローとヨコイは倉庫に向かい、カセットテープの在庫を探ってみた。この流れに乗って、小銭を稼ごうとしているのだ。その他愛もない欲求は、彼らが見下している連中と何の違いもない。まず、注目を集めている『Out of the Vomits』がすでに底をついていたことが分かった。ヨコイは素早く業者に連絡を取り、1,000本の発注をかけた。その他、TBOのディスコグラフィーではファースト・アルバム『Car Wax』と4曲入りの『TBO High School E.P.』がそれぞれ50本ほど残っていた。これも売れると踏んだヨコイはそれぞれ500本追加した。そして、フローとテッドだけで録音されたカリフォルニア・ドーターの『レモネード・セッション』、off-Loのシングル『水たまり』と解散ライブを収録した『The Lost』など、何の価値もないゴミが大量に出てきた。ふたりはそれらを自販機に補充するため、フォルクスワーゲン・ビートルに積み込んだ。出発間際、ヨコイがオシッコしたいというのでフローがタバコをふかして待っていると、倉庫の隅にある紺色の段ボール箱がふと目に止まった。箱を開けてみると、まっさらなカズキ&ザ・ストレンジフルーツの『星の形をした鳥の模型』とタイプされたテープが詰まっていた。ヘアウェイブ・レコードでこのような作品を録音した覚えはなかったが、我々の記憶などあてにならない、とフローは思った。ともかく車に積み込んでしまえ。そして、フローは無意識な行動でそこから一本だけテープを抜き取った。彼は自販機の金を回収したらハイネケンを1ダース買うという考えに取り憑かれていたので、しばらくその事を思い出すこともなかった。

マスメディア対応のため、フローがTBOの自宅に電話すると、彼の母親が出た。
「あら、フロー君。ずいぶん久しぶりね。ごめんなさい、TBOは今イスラエルに行ってるの。あっちのオズフェストの方が日本よりメンツが良いらしいから。メイヘムも出てるし」
「だと思ってました」
「また今度遊びにおいで」しばらく前に、フローはTBOの家に泊まりに行った。手土産も持たずに。いい歳したおっさんが手土産も持たず、友人の家に泊まりに行ったのだ。そのことを思い出し、彼は恥ずかしさで身もだえした。

TBOのつなぎとして、ヘアウェイブ・レコード代表の長谷川ヨコイ単独インタビューが決行された。フローはメディアに対する不信感とその怠惰さから、対応をヨコイに丸投げしたのだ。その日の午後やって来た『フィッシュ・マガジン』の担当編集者とそのライターは、どちらも学校を卒業したばかりのおぼこ娘に見えたし、どちらもヘアウェイブ・レコードには何の興味もなさそうに見えた。せめてどちらか一方は、もう少し経験を積んだ人間の方がいいんじゃないだろうか? とフローは部屋の隅でビールを飲みながら考えた。そして、さらに考えてみると、これがただのヘアウェイブ・レコードのインタビューに過ぎないことを思い出した。一体、誰が気にする?
序盤、ヨコイは極度の緊張からの吐き気でたびたびえずき、彼女たちを怯えさせた。また、案の定、このライターは経験も浅く質問も稚拙だった。フローは心の中で予言した。未だかつて読んだことがない、鳥肌の立つようなおぞましい記事になるだろう。ファック。ヨコイは「これまでの人生におけるフェイバリット・アルバムTOP5」を聞かれ、Jesus Jonesの『Perverse』、Ned's Atomic Dustbinの『Are You Normal?』、Polvoの『Exploded Drawing』、Carter USMの『1992 - The Love Album』、The Sultans of Ping FCの『Teenage Drug』を挙げた。実際はTOP50にも入らないはずだ。ふだん彼女は「Canの『Future Days』は永遠に新しい」とか「Robert Wyattの『Rock Bottom』には落下するときに感じる美さがある」とか「Brian Enoの『Another Green World』は人類が滅亡した後に鳴っている最期の音楽だ」と事あるごとに繰り返し、この3枚は私のオールタイムベストに必ずランクインすると嘯いていたのだ。フローは地上1万メートル上空で綱渡りをするヨコイの精神状態を不憫に思った。
「ええと、あの、カリフォルニア・ドールがまたやるというか、再度結成というというか考えているのでしょうか? 最後の質問なんですけど」
「あのバンドは、えっとカリフォルニア・ドールのことですけど、ライブとかで野次られたり、それで、ライブハウスの店長から気取ったクソとか言われて何だかよく分かんなくなって、それで、シンプルな感じにして、パースペクティブなサウンドにすれば、アリかなって。アリじゃないかって。たけちさんとかも言ってたんですよ。何言ってるのかよく分からないけど。あの人、偉そうですよね。で、何でしたっけ? で、新しいバンドを結成します。バンド名はニナ・コーストです。メンバーはあそこでお酒を飲んでるおじさんです」
「カリフォルニア・ドールって何だ? ニナ・コーストって何だ?」フィッシュ・マガジンの連中が帰った後、フローは激怒した。「パースペクティブって何だよ? 地獄で出家しろ、このクソったれ!」ヨコイの目はそのほとんどの部分が黒く覆われ、どこを見ているのか、ほとんど判別がつかなかった。

そのようなくだらないやり取りの間も、TBO関連の商品は売れ続けた。彼らが学生時代にホームレコーディングしたデモ・テープを2枚組のLPにして無断でリリースしたが、それも売れた。Tシャツも売れた。パステルバッジも売れた。バカげたサイリウムも売れた。ヘアウェイブ・レコードの口座は、見たことのないような桁の額で膨れ上がっていった。TBOはもはやロックスターだった。イスラエルから帰ってきたら、とても驚くだろう。彼は何も知らないうちにBURRN!の表紙を飾っているのだから。
しかし、思わぬ成功は思わぬ事態を引き起こすものだ。彼らは早朝のうちに自動販売機の補充をするようになった。というのも、カリフォルニア・ドーターのファンを自称する輩に待ち伏せを食うようになったからだ。彼らは基本的に社会不適格者で、大抵一人で行動している。かつてカリフォルニア・ドーターは高円寺のライブで、スタジオ・セッションで適当に録音したテープを配布したことがあった。しかし、それらのテープは終演後の会場のフロアに吐き捨てられていた。今では、そんなものに金を払うサイコパス達がいるのだ。
彼らはビートルに乗ってPrimusの『Sailing the Seas of Cheese』やThrobbing Gristleの『20 Jazz Funk Greats』を爆音でかけながら街を駆け抜けた。学生時代、フローは『Sailing the Seas of Cheese』を最高にイカしたクソだと思ってるような女と出会ったら、間違いなく惚れると思っていた。一方で、長谷川ヨコイは『Sailing the Seas of Cheese』を最高にイカしたクソだと思っていたが、フローが彼女に惚れることはなかった。

その一方で、ニナ・コーストに関して言えば、世間からの根拠のない期待感で次第に息苦しさを感じるようになった。また、刺身のつまのように他人の人生に影響を与える事はないと確信していたバラエティ雑誌『フィッシュ・マガジン』の波及効果も馬鹿にできなかった。校正用のPDFを読んだとき、フローは驚愕した。愚か者の祭典のようなインタビューが、何やら知的な雰囲気さえ感じられる読み物となっていた。ヨコイの写真はフォトショップで修正され、新進気鋭のレーベルを運営する敏腕経営者のように見えた。その後ろには無精髭を生やした酒太りの男がソファから崩れ落ちそうに見切れていた。こんな奴いたっけ? どこのホームレスだ?あ、俺か。それはともかく、フローはニナ・コーストの始動に向けて10年ぶりに曲を作り始めた。クソッ、こんなことしてもどこにもたどり着かないのに。どうせ分かったようなフリをした連中が分かった風な口をきくだけだ。

それよりも問題だったのは、またしてもカズキだった。ずっと先の話だが、ヘアウェイブ・レコードが解散して数年後、フローが部屋の掃除をしていると、机の引き出しの奥からカズキ&ザ・ストレンジフルーツの『星の形をした鳥の模型』が出てくる。それは、ちょっとした事件を引き起こしフローとヨコイの記憶に暗い影を落とした。カズキの作品は、誰かの人生に致命的な影響を与えてしまうのだ。だから、覚えていてほしい。もし、あなたが彼の作品に興味があるのであれば、世界が終わる最期の日に聴いてほしいのだ。これは祈りである。そして、フローはため息を吐きながらテープをカセットデッキで再生させる。不思議なものだ、とフローは思うだろう。この音楽はどこにもたどり着かないのに、どこかへやって来たような気がする。彼は、テープをダビングして長谷川ヨコイに送った。事務所解散後はヨコイと連絡を取ることはなかった。だから、すでに引っ越しているかもしれない。でも、それならそれで構わない。

スコット・フロー様

カセットテープありがとうございました。なんと感動的で不思議な音楽でしょう。茫洋とした幼年期のフォーク・ミュージックのような趣をしていながら、背後に鳴る破壊的思考によるリズムトラックが絡まってこんがらがってます。実験的なサウンドスケープですね。 まるで、吉田カズキが再び私たちの前に戻ってきたような、あるいはむしろ、いつもここにいたかのような気がしました。あなたのおかげでこの音楽を知ることができて幸いです。

長谷川ヨコイ