第10話『1999年』


昨年の夏、鵠沼に貝の形をした蜃気楼が出現したと話題になったので、ヘアウェイブ
の連中は物見遊山気分で海岸まで出かけていった。実際は、退屈な想像力を弄んだ学生たちのデマに過ぎず、大きな雲がぽっかりと浮かんでいるだけだった。帰り際に、近くでバーベキューという名の乱痴気騒ぎを演じていた酔っ払いたちがたけちと顔見知りであったため、気がつくとそのまま連中と一緒に酒を飲み始めていた。
今、そのときの写真が何枚かフローの手元にあった。超現実的なインディゴ・ブルーの海を背景に大きくジャンプするTBO、逆光で曖昧になった砂だらけのナオミ、はにかみながら犬とフリスビーで遊ぶたけち、キャッチボールするフロー。このとき、フローはどこの馬の骨とも分からない女とカラーボールを使ってキャッチボールをする羽目になった。理由は思い出せない。5、6回の不毛なボールのやり取りをした後、女が「これ、いつまで続くの?」と近くの友人に話し掛けたため、激怒したフローはその女に全力でボールをぶち当てたのだった。
フローは写真に写る人々を眺めながら、この頃はよかった。すべてがいきいきとしていた、と思った。しかし、それは矮小化された思い込みに過ぎない。昨年、彼はまったくいきいきとしていなかった。当時、彼の唯一の社会的な貢献は、長谷川ヨコイの金でレコーディングしたカリフォルニア・ドーターの新曲を、長谷川ヨコイの金で7インチにプレスし、あまねく世界のレコード屋とリスナーたちから拒絶されたの大量の7インチ(地元のタウン誌のディスク・レビューでは「21世紀で最もありふれたクソのひとつ」と評された)
を、長谷川ヨコイが家賃を払っている湿った倉庫にぶちまけただけだった。
しかし、フローには知る術もないのだが、この写真に写る連中(我を忘れてはしゃぎ、俺たちを見てくれ! こんなに楽しんでいる! 素晴らしい仲間たちと一緒だ! 俺たちは孤独じゃない! と世界に向かってPRしたいというさもしい欲求を抱えた連中)のうち、交通事故で死亡した者、会社を解雇された者、失恋に起因した自暴自棄により社会的信用を失った者、窃盗により警察に逮捕された者、大学6年生になった者など、彼を超える落伍者も数多く含まれていた。ソファに寝そべり、夢の中で聴いたとても奇妙で美しい音楽を目覚めた瞬間に忘れてしまったフローは、1999年の夏からフローのままだ。
だから、変化しないということはある意味において素晴らしいことだった。1年間のあいだ、この残酷な世界は少しずつ複雑になっていった。自然は汚染され、多くの人々が死に至り、動物たちの目は悲しみ湛えている。一体何ができる? 一方、フローのその怠惰さは誰も傷つけることがない。誰が責められる? しかし、このような考え方では、人々はどこにもたどり着くことはできない。客観的に見て、彼は変化したいという欲求と変化したくないという怠惰さの狭間で引き裂かれていた。「これ、いつまで続くの?」と。

あくる日、パンク大学時代の友人である佐々木が予告無しにヘアウェイブ・レコードを訪れた。学生時代はナンパに明け暮れ、交際相手からの借金を踏み倒し、昼間から中央線で酒を飲み、鉄屑のような音のするテレキャスターを弾き、万引した食材でカレーを作り、複数の新聞勧誘員からビール券を山のように受け取って東京を逐電した彼だったが、現在では地方のうち捨てられた廃校でチェロを作っている。
道端の占い師から、「お前は大臣か乞食だ!」と喝破された佐々木だったが、誰も予想しなかった社会性を獲得するに至り、パンク大学の連中たちは泡を吹いた。まあ、あの連中の大半は何の努力もせず、誰かが自分よりも成功するのを見たくないだけの小物に過ぎないのだが。
ふたりはヘアウェイブ行きつけの「カフェ・ボアダム」に陣取り、午前中から酒を飲み始めた。顔なじみの店長はどことなく非難がましい目をしていた。ランチタイムにもなれば、小奇麗なOLや女子大生でそれなりに賑わう店なのだ。一方、フローと佐々木は小奇麗なホームレスのように見えた。生活保護を活用して酒を飲んでいるように見えた。だから、彼らを窓際の席に座らせて、店のプロパガンダにしようとは思わなかった。しかし、それは不公平な見解だった。確かに、彼らは愚か者のようではあったが、その話題のほとんどは音楽や映画、文学を中心としたカルチャーについての言及であったのだから。
そうして、気がつくとその日の夕暮れを迎えようという時刻になっていた。途中、激しい夕立が通り過ぎる。そして、むせ返るようなアスファルトの焼ける匂いが立ち込める。彼らは少ししゃべりつかれたようで、少しずつ言葉を失いはじめる。店内は、この後、彼らと海を隔てる海岸道路は、その交通量を増していく。家路に向かう車の列が、まるでパレードの光のように彼らの目の前を通り過ぎていく。そして、どちらともなく1999年の出来事について話し始める。ヘアウェイブの連中は1999年に取り憑かれている。なぜなら、あのときのさまざまな偶然によって、彼らの人生は吹き飛ばされてしまったのだから。

1999年の夏、フローと佐々木は町田市にある「チョモランマ」というクラブのイベントに出かけた。最初にDJカズキが登場した。当時、彼はストレンジ・フルーツのメンバーとともにジョン・グリーヴスのような奇妙なポップ・ソングを演奏しており、ごく一部のカルト的な狂騒の中心にいた。彼は右のスピーカーからはカンの『フロウ・モーション』を、左のスピーカーからはサン・ラの『Disco 3000』を同時に再生した。そして、マルボロのメンソールに火をつけると会場の奥の方を眺めていた。いや、彼は巨大なサングラスをかけていたし、ぼんやりとした大きなオレンジ色の大量な光の渦がフロアに注ぎ込まれていたため、詳細は分からない。ただ、遠くを眺めているように見えた。一度音楽が鳴りはじめると、彼は煙草をふかしたり、プラスティックのカップに注がれたビールをちびちびと口にしたりするだけだった。彼が何を求めているのかは誰にも分からない。しかし、煙草の煙と床にこぼれたビールと何かしらの花のにおいでむせかえるような会場は不思議な熱を帯びていった。ほんの少しの揺らぎが次第に大きなうねりとなり、人々はその波に溺れた。その時、佐々木が出会ったばかりの家出少女の手を引いて会場を出て行くのが見えた。出口の扉が開くと廊下の蛍光灯の光が眩しかったため、彼の浮かれた表情が目に入ったのだ。
フローが壁に寄りかかってジンジャーエールを飲んでいると、隣にいい感じの娘がいた。ライターを借りると、煙草をねだられた。娘のやや細くつり上がった目のほとんどが濡れた黒い瞳で覆われており、こちらを見ているようでも見ていないようでもあった。彼はくしゃくしゃになったラッキー・ストライクを一本取り出すと、火をつけてから娘に手渡した。娘は淫靡な笑みを浮かべ、フローの腕に手を回した。そして、煙草をふかすと彼の着古したブラック・フラッグのTシャツに顔をもたらせた。汗と香水とファンデーションの混じった匂いにめまいがした。そして、目の粗いセクシーなサマー・セーター越しのおっぱいがいい感じで腕に当たっていた。やれるかもしれないとフローは思った。しかし、数ヵ月前、佐々木はクラブで知り合ったキリコという女と明け方、フロアの人々が引き上げる前に姿をくらました。その数週間後のクラブで、佐々木がトイレに行っている間に、カズキとキリコが姿をくらました。そして、その数週間後、佐々木とカズキが街角のレンガの壁にもたれながら、医師に処方された性病に効く薬を飲んでいたとき、キリコは彼らの前から永遠に姿を消した。そのときの佐々木とカズキは、クリスマスのプレゼントを取り上げられた子供たちのようにナイーブに映った。
ふと我に帰ると、フロアはカズキのグルーヴによって恍惚と暴力の狭間にあった。彼らの物語においては、比較的安易に起こりやすいトラブルの匂いがした。フローはトイレに行くと言い訳をしてその場を逃れ、実際にトイレに向かった。

フローと佐々木は海岸道路を横切り、海辺にでた。一組のカップルが花火をしていた。彼らは1999年の我々のようだ。弾ける光に映る瞳は淀みなく輝いている。ふたりの距離は急速に縮まり、誰もそれを止めることができない。まるでふたりの人間がひとつになれるかのような錯覚を起こす。しかし、近づけば近づくほどふたりの距離は遠のいていくのだ。それとも、彼らはもう気づいているのだろうか? 静かな嬌声と、国道の車の音と、寄せては返す波の音が、リュック・フェラーリの作品を連想させた。我々はあまりにも多くのものを失ってきたのだと思い、涙を流すことなく泣いた。

フローはトイレで顔を洗い、今夜これからどうすべきか考えあぐねていた。トイレの個室は3つあり、ひとつは汚物にまみれ、もうひとつは排水の関係で使用禁止となり、もうひとつは使用中だった。その個室からかなりヤバい、激しい息遣いが聞こえてるくる。あの野郎やってやがる。ふざけた奴らだ。
「おい、佐々木」返事はない。セックスを止める気はなさそうだ。「先、帰るぞ」やはり返事はない。そこでフローは、個室にいるのが佐々木でない可能性に思い至った。だとしたら俺は破廉恥で間抜けな男だった。いや、そうでなかったとしても破廉恥で間抜けの一種に変わりはないのだ。クソったれ、どうにかしてるだろ。なぜ、みんなセックスに取り憑かれているのだろう。セックスなどすればするほどほどふたりの距離は隔たっていくのに。そして、彼が外に出ようとした時、2mほどの体躯をした黒人男性がなだれ込んできた。彼は猛禽類の素早さで状況を把握すると、塞がった個室のドアを叩き始めた。「ヘルプ、ヘルプ!」事態は急を要するみたいだった。物事はすべて主観的になり得るのだ。すると、「ジャスト・ア・モーメント」と佐々木の呑気で稚拙な英語が聞こえた。佐々木はシンプルというよりは、こういった安易な表現を好むのだ。このような価値観をフローはよく理解できなかった。中にいる愚か者たちがセックスをしているのは明らかだったため、黒人は激怒した。フローは虚無感のため、めまいがした。全ての視覚と聴覚は遠のいていった。そして、黒人がドアを破壊し始め、佐々木が「ヘルプ!」と叫び始めたあたりで、フローは物事がすべて主観になり得ると再認識した。トイレを出て真っ赤な廊下を足取りもおぼつかず進んで行くと、フロアの方から怒号や悲鳴が聞こえてきた。すべての出来事は茶番で我々はどこにもたどり着くことはないと吐き捨てるようにつぶやき、フローは建物を出た。そして、最初に目についたタクシーを止めると、目を配らせることもなくその場から去ったのだった。翌日の夕刊で、暴徒の放火により「チョモランマ」が全焼したことを知った。しかし、黄昏た世界があまりにも黄金で彩られて目を奪われていたため、佐々木やカズキの安否を確認しようという気は起こらなかった。

海からの帰り道、フローと佐々木はリカー・ショップでハイネケンをしこたま買い込み、事務所に戻った。あれから20年近くの歳月が流れたのだ。なのに、我々は我々のままだ。イカした音楽が聴きたいと、佐々木はリキッド・リキッドのレコードを取り出すとターンテーブルに載せた。彼らは再び飲み始めた。瞬く間に1ダースの空き缶がテーブルの上に並んだ。佐々木はミニマムなファンクの強烈なグルーヴに身を任せてダンスした。「やめといたほうがいいよ」とフローはつぶやいた。その声は佐々木の耳に届いていないようだった。むしろ、届かないようにつぶやいたのだから。
「ヘイ、フロー。カモン、レッツ・ダンス!」このように、佐々木はよく稚拙な英語でシャウトした。なぜ、佐々木がこういった安易なアジテーションを好むのか、フローにはよく理解できなかった。安直なアジテーションは、安直なコミュニケーションを生む。フローの嗅覚は、新たなトラブルを未然に察知していた。私には無用なトラブルが必要だ、と彼は思い至った。穏やかな日常が破壊されることをいつでも期待している。穏やかな日常は破壊を前提としている。佐々木の複雑なステップは、音楽とともにそのスピードを増し、ポリリズムのようになっていった。フローの瞬きはシャッタースピードが極めてスローとなったカメラのように、回転するプロペラのような佐々木の残像を描いた。1999年からずいぶん遠くへ来たような気がする。ここでは時間が空間に変わるのだ。そして、そしてそれは永遠に続くように思われた。しかし。永遠に続くものなどない。自分を見失った佐々木は、足をケーブルに絡ませ、激しく転倒した。それと同時に、ヨコイが大事にしていたマッキントッシュのパワーアンプが棚から引きずり落とされ、破裂した。パワーアンプからは煙が立ち上りはじめ、その後、神の怒りのように炎が噴出した。
「ヘイ、フロー。早く火を消さないと世界が終わっちまうぜ」いや、世界は終わらないだろ。我々が愚かにも滅亡したとしても、世界は終わらない。しかし、偏執的な自意識に目を奪われ、他者に対するささやかな共感を失った人々はそう考えたがらない。まず、佐々木はホースを探した。ホースがあれば、効率的に消火活動が行えると考えたのだ。「それよりも、バルコニーの消火器を持ってきた方がいいのに」とフローはつぶやいた。その声は佐々木の耳に届いていないようだった。むしろ、届かないようにつぶやいたのだから。
すり鉢状をした日常の周辺伝いにパチンコ玉を回転するように放つと、弧を描きながら下方に吸い込まれていくのを感じた。そして、その至るとことは深淵の闇だ。玉を投げ入れるのはいつでも他の誰かだった。弧を描くパチンコ玉と燃え上がる炎を見てフローは美しいと思った。余談だが、彼は10年ほど前に近所の焚き火サークルに加入していたことがあった。彼らは七色をした炎を見つめながらコーヒーを飲み、穏やかな時間を過ごした。
唐突に玄関のドアが開いた。燃え上がるソファの向こうで、長谷川ヨコイの姿が見えた。熱気のせいで、彼女が揺らいで見た。あそこに長谷川ヨコイがいる。どのくらい遠い? どのくらい近い? それを知るにはヨコイの正確な身長を知る必要がある。しかし、フローにはそれができず、ぼんやりとしてくる。ヨコイが「ただいま」と言ったような気がしたので、フローは「おかえり」と言った。しかし、このような状況でそんなことは言わないような気もした。すると、消火活動を行っていた佐々木の服に炎が引火した。火だるまになった佐々木が何か叫んだ。「ナイス・パラダイス!」と言ったような気がした。なぜ、佐々木がこういった安易なアジテーションを好むのか、フローにはよく理解できなかった。しかし、このような状況でそんなことは言わないような気もした。そして、誰が「ヘルプ!」と叫んだ。もしくは、誰が「ヘルプ」と壁に言葉を描いた。誰の言葉なのだろうか? 佐々木? ヨコイ? それともトーレ・アンドレ・スコット・フロー? このままでは本当に世界が終わってしまうのではないかと思われたそのとき、マンションの防火システムによってスプリンクラーが作動した。理由は分からないのだが、スプリンクラーから噴出したのは熱湯だった。「ギャッ」フローと佐々木はあまりの熱さに奇妙なダンスを踊りった。本当に熱いお湯だった。そして、その意識は遠のいて行くかのように、再び過去へと遡っていったのだった。