第8話『鳥の名前』



7月24日
 目が覚めると、この建物には誰の気配もない、とフローは気付いた。彼は台所でグラスに氷を入れると、作り置きのアイスコーヒーをなみなみと注ぎ、がぶがぶと飲みほした。その後、居間のステレオでニック・ドレイクの『ウェイ・トゥ・ブルー』をかけると、ソファのうえにひっくり返った。ポケットの中のくしゃくしゃになったラッキーストライクを取り出し火をつけ、音楽にあわせて適当な歌詞を口ずさんだ。すると、不思議と気分はみるみる落ち込んでいった。気がつくと、いつも自分だけが物語の外側にはじき出されているように感じた。もちろん、フロー側の物語も存在はした。しかし、孤独で室内から出ることをあまり好まない男、金もない無職の男が、朝食に目玉焼きを食べながら、これまでの人生の不満をぶちまけ、これからの人生の不安に駆られている物語。多くの人々は、このような物語の登場人物になりたいとは思わない。
 昼過ぎ頃、フローはヨコイのビートルに乗ってテッドの見舞いに向かった。長谷川ヨコイはどこへ行った? カーステレオでニック・ドレイクの『ピンク・ムーン』のカセットテープを爆音でかけた。すると、気分はみるみる落ち込んでいった。この時間の日差しは獰猛だった。エアコンの効いた病室のベッドでテッドは元気そうに見えた。だが、この休暇中にレコーディングを続行することは不可能となった。退院する頃、彼は仕事に戻る。だから、しばらくの間お別れだと言った。フローはテッドに荷物を渡すと、そそくさと病院を出た。
 彼はスタジオに戻らず、湖に向かった。街から郊外へ、郊外から森へ。しばらく走ると湖畔に沿ってカーブしていく道に出る。時々、木が湖を遮るが、隙間から光が反射している。遠くに、水を飲む動物達の姿が見える。フローは適当な場所で車を停め、水辺までの道をたどった。
 湖は良い、とフローは思った。その水面を見ているだけで飽きることがない。それは常に形を変えていく。形を変えていくということは、柔軟ということだ。水は柔軟だ。人はそうではない。早い段階で固まり始め、結果死に至る。
 彼は打ち捨てられたボートを見つけるとそれに乗り込み、岸から少し離れていった。船底に横たわると、太陽がさらに眩しかった。上空を鳥が旋回している。その鳥に見覚えがあった。鳥の名前は何だったか? はるか向こうの方でヨコイが掲げるプラカード。そこにはその名が書いてある。もう少し目を凝らせば見えるはずだ。その文字を読み取るには、ごくわずかな距離がある。そして、結局、その名を思い出すことはできなかった。そのままの姿勢で、しばらくのあいだ目を閉じた。それでも視界は明るく、まぶたの裏側に浮かぶ模様が変化していくのを眺めていた。漠然とした何らかの考えと、眠りに落ちるはざ間を行ったり来たりしているうちに、だいぶ時間が経ったような気がした。
 しばらくすると、岸辺の方からにぎやかなざわめきが聞こえてくる。フローが起き上がると、向こうで手を振る男女が見えた。フローは知人ではないかという可能性を考慮し、手を振り返した。しかし、彼らの視線はフローを超え、さらにその先にある二艘のボートへ向けられていた。今更、驚くことなど何もない。ただ水で薄められたぼんやりとした悲しみに襲われただけだ。「他者の意識が存在する限り、私の居場所は存在しないようだった」とフローは思った。
 湖からの帰り道、彼は自分が空腹だと気付いた。今朝から、何も食事をとっていなかったのだ。フローは、県道沿いの最初に目についたうどん屋で車を止めた。店はバラックのような簡素なつくりで、入り口に立てかけられたベニヤ板には、筆で「かねや」と殴り書きされていた。彼は入ってすぐのテーブル席に腰かけた。キャベツの千切りと天かす、紅ショウガが入れ放題となっていたため、かけうどんを注文した。まだ午後6時を回ったばかりで、窓の外は明るかった。色あせた店内を見渡すと老夫婦が一組、天ぷらを食いながら静かにビールを飲んでいた。古びて油で汚れたテレビから、プロ野球のオールスターゲームが放送されていた。しばらくすると、ごくシンプルなうどんが運ばれてきた。大ぶりの椀盛られた、薄くもなく濃い色をしたつゆと太くゴツゴツとした素人じみた手打ちの麺だった。しかし、一口食べてみると、それは魔法のようだった。彼はこんなに旨いうどんを、かつて食べたことがなかった。新しい扉を開いたような感覚がやってきた。彼は夢中でうどんをすすり、つゆを飲み干すと、お代わりを注文した。2杯目のうどんを待つ間、蛍光灯の周りを飛ぶ蛾を見つめていた。ここ数ヶ月の間で、最も心を動かされる出来事だった。
 スタジオに戻ると、入り口に古いプジョーのコンバーチブルが止まっていた。その横で、所在無く煙草を吸っている男がいた。たけちだ。
「アッー、しまった。今日はみんなでバーベキューをすることになっていたんだった」携帯電話を確認すると、たけちからの無数の着信履歴が残っていた。
「すげー待ったよ」たけちはふてぶてしい態度で、煙草を投げ捨てた。怒り狂っているようだった。
 まあ、テッドはいい。彼は哀れにも負傷した。だが、カズキやヨコイはどうなんだ? 廃嫡された放蕩息子カズキと、親の援助で廃棄物のようなレコード・レーベルを経営する社会不適格者ヨコイ。あのクソ野郎どもも地べたに這いずり謝罪するべきじゃないのか? しかも、奴らは私にも謝罪する義務がある。なのに、なぜ私だけがこんな卑屈な態度をとって、たけちのご機嫌を伺わなければならないんだ? 不条理だ。それらの事情を差し置いても、フローには謝罪する義務があっただろう。だが、すべての責任を第三者になすりつけ、湧き上がる怒りにまかせながらビートルのドアを叩き閉めた。「言わなければならないことがある」たけちは振り向きざまに、すごく遠くにある眩しいものを見るかのように不可解な表情を浮かべた。
「カズキとヨコイは失踪した。テッドは怪我を負って入院した」しばらくのあいだ、沈黙が流れた。変圧器のノイズに似た耳鳴りが続いた。それは耳鳴りではなく変圧器のノイズなのかもしれない。
「…じゃあ、この大量の食料はどうしたらいいんだ?」
「とりあえず、焼こう」そして、二人はビールを飲みながら黙々と火を起こしはじめた。
火は良い、とフローは思った。火は見ているだけで飽きることがない。それは常に形を変えていく。形を変えていくということは、柔軟ということだ。火は柔軟だ。人はそうではない。早い段階で固まり始め、結果死に至る。炎と山の境目に残る紫色の光を除くと、あたりは完全な闇に包まれた。そして、肉の焼ける臭いが漂いはじめる。
「うまそうだ」とたけちが言った。フローは火の通りが悪い茄子をつつきながら、ここ数日の出来事を独り言のように話した。この世界ではない、別の世界の話のようだった。

 しばらくすると、いつものカオスが訪れる。カオスは非日常ではなく、日常の延長線上からやってくるのだ。

 まず、肉の匂いを嗅ぎつけた獰猛な野犬の群れが、スタジオ周辺を取り囲みはじめた。何匹いるのだろう、暗くてはっきりしない。その気配を察するとフローとたけちは無駄口を叩くのをやめた。生理的にはめまいを、精神的には怒りを覚えた。ごくわずかな時間、みんなでバーベキューをすれば楽しいひと時が過ごせるのではないか、骨つきの肉を買っておけばよかったと、馬鹿げた考えが頭をよぎった。しかし、奴らにはその気がない。つまりこれは戦争なのだ。犬が距離を縮めてくる感覚を察知すると、フローとたけちはロケット花火に火をつけ犬に向けて連続発射した。炸裂するロケット花火に犬の群れがパニック状態に陥った。その様子を察すると、彼らは残りありったけの花火を自分の体に巻きつけ、引火させたまま群れに突進していった。叫び声が聞こえる。誰の?フローの?たけちの?それとも野犬の? それは分からない。ただ、原色の様々なテクスチュアをした火花が塊になって、はっきりした色彩なのに何の色かを言い当てることはできなくて、あたりは目も眩むほどの光に包まれていったのだった。