第7話『複数のホーンセクション』



7月22日
 朝から、テッドの新曲『旅の手帖』の録音をスタートした。相変わらずカズキとヨコイは姿をくらましたままだったのだ。そのため、テッドがドラムを叩き、フローがベースを弾いた。昼食後にはディストーションとアンプを使い、可能な限りシャリシャリとした音を作った。二人でたどたどしいギターバトルを繰り広げていると、それは奇妙で歪なエモーションを生んだ。孤独や悲しみを感じるわけでもない、熱に浮かされているわけでもない。弾力があって透明な物体が、少しずつ膨張していくような感情だった。
 午後5時、町役場のスピーカーからドヴォルザークの「新世界」が流れてきたため、彼らは録音を切り上げた。そして、ビニール袋に入った数本の缶ビールを持ち、中庭の錆びついた鉄の階段を昇り、砂利や空き缶、風化したビニールが散らばる屋上に出た。足元のコンクリートの継ぎ目やひび割れからは、獰猛な雑草群が生え伸びていた。暑さは続いていたが、不快なほどではなかった。傾きつつあるオレンジ色の光の世界のなか、二人はビールを飲み、煙草に火をつけ、かつて白いペンキで塗られた柵の向こうに広がる風景を見渡した。
 少し風が出てきた。建物の庭の先から緩やかな下り斜面となっており、少し先の方には果樹園が広がっていた。その果樹を眺めていると、ふと、視線の隅に人影が映ったような気がした。
「フロー」テッドは手すりの錆をピックでこそげ落としながら言った。「カリフォルニア・ドーターは長くないよ」フローは、どちらにでもとれるような曖昧な相槌を打った。おそらくは、とフローは考えた。しかし、彼がその事実を認めるためには、彼の背景にある漠然とした不安感を認める作業が必要になる。そんな作業に耐えうる術を持っていないと思った。
「あるいは…」とテッドは言いかけ、二本目の缶ビールを開けた。
「あそこに誰かいるんじゃないか?」フローは煙草を持った方の手で、果樹園の方を指し示した。木々の合間に、ヨコイの迷彩柄のワンピースが見えたような気がした。テッドが目を凝らしながら前のめりになり、柵に寄りかろうとしたとき、彼がついた手の部分が抵抗もなくスポッと抜けた。けたたましい叫び声をあげならが、テッドがゆっくりと転落していくのが見えた。ナタリー・バイが自転車で走り抜けていくようなスローモーションだった。フローは、驚きのあまり声も出せず、幾許かの動作をとることもできなかった。
 その結果、テッドは古びたトロッコの上に転落した。なぜ、あんなところにトロッコが置いてあるのだろうか。トロッコは衝撃がきっかけとなり、テッドを乗せたままゆっくりと動き出した。その進行方向には、複数のドラム缶が配置されていた。良かった、あれらのドラム缶に当たり、トロッコは止まるのだろう。どこかで、音楽が鳴っているような気がした。複数のホーンセクションで構成される、テクスチュアを引き延ばしたような音楽だった。この曲の名前は何というのだろうか?
 それから、フローはトロッコが止まるまでの間、惚けたような表情でテッドを眺めていた。どのみち、今の自分にできることは何もないのだ、と思った。いや、今だけじゃないな。これまでもずっとそうだった。これからもずっとそうだろう。そういえば去年の夏も、この場所でレコーディングを行っていた。夜になり、このスタジオを抜け出すと、近所の大学のセミナーハウスに無断で侵入した。そして、そこの公衆電話から当時の彼女に電話をかけたのだった。そのとき、二人はまだ睦まじかった。電話を切る間際、「フローに会えてよかった」と彼女は言った。彼にとって、それは啓示だった。もう彼女と会う機会は永遠に失われ、「フローに会えてよかった」と思う人の存在はこの世界から消えた。どのみち、今の自分にできることは何もないのだ。
 フローがそのような益もない考えを弄んでいるうちに、トロッコは何かに乗り上げたようにガタリと揺れた。すると、トロッコは突如その進路を変える。まるで魔法だった。カオスは常に日常からやってくる。その先には、大きなカーブをともなう下り坂があった。側溝の蓋を斜めに超えて道路に出ると、トロッコはその速度を急速に増していった。
 テッドの叫び声が「Huraaaaaaaaaaaaaaaaaay!」と言っているように聞こえる。バカな、そんなことを言うはずがないじゃないか。トロッコは、鉄の車輪でアスファルトを粉砕しながら、「ゴッー」というけたたましい音を響かせ、カーブに突っ込んでいく。これは大変なことになった、とフローは思った。しかし、どのみち、今の自分にできることは何もないのだ。トロッコが路上をバウンドすると、何らかの部品が弾けとんだ。そして、猛スピードで道に沿いながら緩やかな曲線を描き、そしてカーブの向こう側に消えていった。
 あたりには饒舌な沈黙が訪れ、フローは二本目の煙草に火をつけた。どこかで、音楽が鳴っていた。複数のホーンセクションで構成される、テクスチュアを引き延ばしたような音楽だった。