第0話『ボレロ』




 1999年の夏、私と長谷川ヨコイは、黄色いフォルクスワーゲン・ビートルに乗り込み、北関東のとあるキャンプ場に向かった。途中、国道沿いのブックオフに立ち寄り、Deccaのラヴェル管弦楽作品集と、Voxboxのバッハ協奏曲全集をそれぞれ250円で購入した。車内で流れていた、クリスティアーヌ・ジャコテの軽快なチェンバロの音が、今でも耳に残っている。

 ヘアウェイブ・レコードはその年に始まり、2014年に崩壊した。「ボレロ」のように転調もなく、テクスチュアだけが変化していく。最後に、カズキが再発見される。それによってすべての物事に変化が訪れる。時間は実際に経過するより引き延ばされ、ここからそこへ、そこからここへ、少ししか経っていないのに、遠くへ来たように思えた。

 キャンプ場での夕食の後、ヨコイはラジカセをかついで川原へ降りていった。川辺ではラヴェルの「ボレロ」をかけた。シャルル・デュトワが指揮するモントリオール交響楽団。音楽を聴きながらビールを飲み、焚き火をした。そうやって炎を眺めていると、炎の形の在り方はさまざまだった。炎は柔軟だ。人間はそうではない。次第に凝り固まっていき、最終的には死に至る。私は、この場所まで向かう車の中で、車窓から眺めた風景の移り変わりを思い出した。風景の在り方もさまざまだった。見ていて飽くことがなかった。その時、私のなかに「人生のハイライト現象」が起こった。その背後には、ホーンセクションが
分厚く重ねられ、引き伸ばされ、すべてがスローモーションのようになっていくようなテクスチュアのサウンドが鳴り響いていた。当時の私は、自分がすでに失われた人間であると感じていた。今では、より失われた人間であると感じている。
 カズキは周辺の人間にとって、感情の破綻したラジオ・カセット・プレイヤーのような男だった。そのプレイヤーは煙を吐き、発火し、カタカタと音を立て、爆発を起こした。その爆発はささやかなものであったが、我々に付随するすべてのものを吹き飛ばしてしまった。その結果、私と長谷川ヨコイの二人は、最後の行き場さえ失ってしまったのだった。

 川下の方では、若者たちの気違いじみた叫び声と笑い後が響いていた。夜の闇のため、望遠鏡を逆さに覗いたように、彼らは実際よりも遠くに見えた。今から、100年後の世界では、私たちと彼らのすべてがなすすべなく死んでいると思うと、悲しみがこみ上げてきた。だが、そんな悲しみなど、何の意味もなかった。

 「ボレロ」の最後の転調が流れるなか、若者たちが炎の周りをゆっくりと回っていた。唐突に、昼間釣り上げたニジマスを放つ手に、きれいな水が触れたのを感じた。水は鮮烈だった。長谷川ヨコイはどこへ行った? カズキの巨大なポートレイト。帰り道に焼け落ちた橋。ニジマスは岩陰に、色褪せて消えていく。彼女は「フローに会えてよかった」と言った。誰かの意識がある限り、私の居場所は存在しないようだった。あそこにヨコイが見える。どのくらい近い? どのくらい遠い? 私とヨコイの距離を知るには、彼女の正確な大きさを知る必要があった。私にはそれが分からず、ぼんやりとしてくる。

 「さよなら、またいつか」と誰かがささやいた。水面に水滴が落ちるような声だった。
 「さよなら、21世紀」とカズキが言った。