第4話『さよなら21世紀』


 独立系の音楽レーベルであるヘアウェイブ・レコードは、寒川のうらぶれたマンションに入居していた。ここには、失職した行き場のない青年たちが集い、世間に背を向け、非生産的なレコードを作っていた。マンションの住人や自治会の連中は、彼らをヘアウェイブ族と呼び、地域社会に溶け込もうとしないこの青年たちを疎み蔑んでいた。

 事務所内には、100円〜300円で購入された、膨大な量のアナログ・レコードが壁一面から床にかけて雪崩れていた。長谷川ヨコイが足元から適当にレコードを一枚引き抜くと、ピーター・ガブリエルのサード・アルバムだった。彼女は、そのレコードをターンテーブルに載せ、音楽が流れ出すと踊った。部屋の中央には、バウハウス風のデザインをした巨大なソファがある。数年前、フローとヨコイで、粗大ゴミ置き場から拾ってきたものだ。そのソファの上では、その数ヶ月前、凄惨な殺人事件が起こっていた。フローはそんなことを知る由もなく、血で呪われたソファにゴロゴロと寝そべり、ポテチを食べながら神奈川新聞を読んでいた。彼がぼんやりと何の意味もない言葉と過去の記憶を弄んでいるあいだに、社会は刻一刻と変化し、急激な速度で渦を巻いていた。地域ニュースの欄には、茅ヶ崎在住の家具アーティストであるたけちが、チャリティーマラソンに参加するというニュースが掲載されていた。そのような類の記事にしてはやけに格調高い文体であり、その他愛もない内容に相応な矮小さを増長した。フローは新聞を丸めてヨコイに投げつけると、階下にあるカフェ・ボアダムに向かった。

 再び結成されたニナ・コーストたちは、ライブに向けてリハーサルを開始した。カズキは手づくりのギターを携えてきた。長方形で木目が美しく、フレットレスであった。そのトーンは、うすくたなびいた雲のようで、フェイザーを踏むと、コロコロと笑った。30分を経過したあたりで、カズキのギターから煙がもくもくと立ち昇り、その日はお開きとなった。


 フローが喫茶店で無作為な時間を過ごしているあいだに、TBOとアメリカが事務所にやって来て、二人仲良くアップルパイを作り始めた。

「ジンジャーは入れるのかな?」TBOがおどけて聞く。
「いや、シナモンとか入れるんじゃないですか?」
「ジンジャーは入れるのかな?」
「いや、入れないんじゃないですか?」
「ジンジャー、ジンジャー」
「ジンジャー入れたいんですか?」
「ジンジィィィィィャャャャァァァァァァァッー!」

 フローは、オープンテラスに座り、Lサイズのアイス・コーヒーを飲んでいた。巨大なAKGのヘッドフォンで、デレク・ベイリーの『デュオ・インプロヴィゼーション』を聴いていた。彼の態度は、知性と情熱を第三者に感じさせようとする気取ったものであり、滑稽だった。そういった振る舞いに問題があることも直視しようとせず、彼はこれまで生きてきた。そうして、彼は友人や恋人たちを失ってきたのだ。この私自身、彼を好ましく思うことは稀だ。

 ちょうどそこへ、長谷川ヨコイとナオミが昼食から帰ってきた。
「あ、フローだ。まったくのアホみたい」 
「憐れな生き物ですね。恥ずかしいです」陰口に気付いたらしく、フローは二人を睨んだ。彼女たちは、足早に事務所へ戻っていった。

(中略)


「ちょっと、なんでカギかかってんのよ」ナオミはヒステリックにインターフォンを押す。「TBO、開けなさい」ヨコイは変な想像をして赤くなった。

「おっ、ベルが鳴ってるよ」鼻の頭にりんごのジャムをくっつけたTBOが言う。
「ほお、そうですか」とアメリカ。
「あんた、出たらいいんじゃないの?」
「いやいや、あんたが出たらどうですか?」二人は身体をしならせながら右往左往した。奇妙なダンスだった。仮に、それがダンスであったならの話だが。
「あや、鍋が」クネクネと揉み合う二人は鍋をひっくり返し、その音は外まで響いた。
「ちょっと何、今の音、何? 早く、TBO。早く開けなさい、早く」ヨコイはますます赤くなった。

 ちょうどその頃、カフェ・ボアダムには怒れる革命家カズキが、足元がふらついているかのように雪崩れ込んできた。彼はアヒルを人質にとり、店長を脅した。顔なじみの店長はできるだけ事を穏便に済ませたかったのだが、気違いが刃物を持っていたので、やむを得ず警察に通報した。フローは二杯目のコーヒーにミルクをたっぷりと入れながら、その小さな波紋のごとき騒動を横目でチラリと見遣り、黙殺した。CDをAMMの『Ammmusic』に取り替え、悦に入っていた。

 しばらくして、近くの交番から自転車に乗った青二才風の警官がやってきた。
「なんだい、またあんたかい」
「アヒルを殺すぞ」カズキと顔なじみだった警官は、できるだけ事を穏便に済ませたかっのだが、気違いが刃物を持っていたのでそういうわけにもいかなかった。
「まあまあ。そのへんにしておきなさい。また病院に入れられるよ」
「うるせー、怠惰め」カズキの奇声に、数十人の野次馬が集まってきていた。彼らは安易なトラブルとバイオレンスを期待した、退屈な人々だった。退屈な人間は、自身の退屈さにより一層人生を退屈に感じる。それを解消する方法は、安易なトラブルとバイオレンスしかないのだ。しかし、カズキと警官の、あまり実りがなく緊張感を欠いたやり取りを目の当たりにし、業を煮やした彼らは次第に凶暴なブーイングを始めた。
「もりあがんねーんだよ、クソったれ」
「お前ら殺し合えよ、ゴミ屑野郎」
「くたばれポリ公」 金も知恵もない若者やヤクザサラリーマン達をはじめとした空虚な群衆は、ペプシやラムネなどの瓶、ポリバケツ等を放り投げ、それらは飛んできて、あたりに破裂する音が響いた。暫くの後、不運にも、その中の一本がフローのCDプレイヤーを粉砕した。辺りに静寂が訪れた。不穏なフローの後ろ姿に、群衆は次に起こる出来事をはかりかねていた。
「…誰がやったんだ、このいかれポンチ野郎」数秒の沈黙の後、誰かが叫んだ。
「いかれポンチはテメーだろ、このヘアウェイブ野郎」
 それを合図に、テーブルと無数の紙コーヒーカップがビョーンと空を舞い(それはスローモーションのように見えた)、野次馬群の中に突っ込んでいった。
「ギャー」
「あ、やったな。やっちゃったよ」
「畜生、やったれ」 群集から怒涛の投石が始まった。ガラスやネオンの割れる音、悲鳴、怒号など、お馴染みの混乱がやってきた。警官はテーブルを盾にして、群集をピストルで射撃した。フローと店長はカウンターの奥から、ウォッカで作った即席の火炎ビンを投げ、応戦した。
「ギャー」
「うがー」
「ジンジャー」
 幾人かが撃たれ、炎に包まれる者も続出した。
「おーい、救急車を呼んでくれ」
「お前が呼べよ」
「水だー、誰か水持って来い」
「お前が持って来いよ」
 野次馬の中にいたチモシーというヘアウェイブ・レコードと対立するバンドのフロントマンが、消防車に乗って戻ってきた。チモシーは、カフェ・ボアダムに向って放水を開始した。水圧は凄まじく、フローや店長、デーブルやソファなどを根こそぎ吹き飛ばした。
 このような事態は収拾不可能に違いない、そう思われたその時、
「やめろ、やめろー」カズキが路上に転がり込んできた。
「人々が争うのはもうたくさんだ」彼は殉教者のように叫んだ。実際に、彼は20世紀最後の殉教者であった。しかし、あたりには白々しい空気が流れた。
「おめーが原因じゃねーか。このイタチ野郎」カズキが往来で服を脱ぎ出すと、群衆はモーゼを前にした盲人のように左右に道を空けた。実際に、彼は蜜と乳の流れる地を目指していた。
「アヒルを解放します」カズキは、路上にアヒルを放った。アヒルはみんなの足元を行ったり来たりしていた。そして、時々「グワ」と鳴いた。平和的で心暖まる光景だった。
「…かわいいなあ」誰からともなくため息のような声が洩れた。
「純粋なんだ」
「ホントだ。今まで気付かなかった」
「迷子のようだよ」
 皆が我を忘れてアヒルの魅力に取り憑かれている間に、事態は思わぬ方向へ向かい進んでいった。だいぶ前から、遠くの方でマーチのような音楽がかすかに響いていた。なのだが、カズキの起こした騒動のために、気付いたものは誰もいなかった。しかし、その音は徐々に群衆の聴覚を刺激し始め、やがて幻聴やその他の雑音でないことがはっきりすると、群衆は漠然とした不安を抱きはじめた。それは確実にやってくるのだ。それは分かっていたのだが、引き伸ばされた時間の中では、誰も動くことはできなかった。不安の概念は現実のものとして形をとり、右手からその姿を現した。それは公安警察ブラスバンド部隊で、マーチに合わせて、目の前の物すべてをなぎ倒しながら行進してきたのだ。野次馬達は恐怖にかられ、ヘレニズム時代の彫刻そこのけに左手の方へ逃げ出した。しかし、そちらからは公安警察と対立する市民達に結成された自警集団『バンザイ同盟』の一群が、「バンザイ」の掛け声勇ましく、逃げ惑う群衆を飲み込んでいった。フローは、カズキがアヒルを助けようと手を差しのべたのを見た。それと同時に、ブラスバンドとバンザイ同盟が衝突した。カズキの姿は、フローの視界から消えた。
「トテー」
「バンザーイ」
「うわー。むちゃくちゃだー」
「トテー」
「バンザーイ」
 ブラスバンドのアンサンブルは崩壊寸前でとどまり、まるでアルバート・アイラーの音楽のような祝祭的空間が成立した。トランペットや、ちりとり、無数の紙コーヒーカップが宙を舞い、その中にはアヒルの姿も垣間見えた。住民の通報でカズキが、アヒルに手を差しのべると、ブラスバンドとバンザイ同盟が衝突し、カズキの視界からアヒルが消えた。
「トテー」
「バンザーイ」
「うわー。むちゃくちゃだー」
「トテー」
「バンザーイ」

 しかし、これらは精神的な葛藤における一つの達成のようなもので、実際に起こった出来事ではない。午後二時を少し回った頃、カズキは喫茶店にアヒルを連れて来る。エスプレッソを注文し、洗練されたデザインの椅子が掲載された雑誌を読む。フローはカズキの姿に気づくと、ヘッドフォンを外す。軽い挨拶の後、カズキのテーブルに座り、いくつかの音楽について議論をする。しばらくして、アヒルの飼い主がやって来る。その中年女性は、カズキに罵声を浴びせる。そして、カズキからアヒルを奪い取る。そして、彼女は去っていく。そして、カズキは泣き出す。こんな世界は耐えられない、と言う。フローはカズキを落ち着かせ、ベージュの公衆電話に硬貨を入れる。そして、ダイヤルを回すと、特殊な救急車を呼ぶ。しばらくして、救急車がやって来る。それは白くて、四角くて、ピカピカしている。カズキは隊員に手を引かれ、車内に入る。顔の半分は日に照らされて、もう半分は影に覆われている。フローは手を差し出す。二人は握手をする。

「さよなら、またいつか」とフロー。
「さよなら、21世紀」とカズキ。
 黄色い光の中、フローは、救急車が去っていくのを、しばらくのあいだ見送っていた。救急車が視界から完全に姿を消し、そのエンジン音がかき消された後も、しばらくそのままの道向こう側へ続くカーブの先の方を見ていた。どこまでが道で、どこまでが風景か見極めようとした。それに飽きると会計を済ませ、ヘアウェイブ・レコードへ戻っていった。

 事務所では、みんながバタバタと、出かける準備をしていた。奥から、ゴーグルを持ってきたアメリカがフローに言った。

「TBOの友達が、飛行船に載せてくれるって」
「へぇ、そりゃ良いね」
「君も来なよ」みんなはお菓子をやまほど抱え、暖かいお茶などをビンにつめた。みんながとても楽しそうで生き生きしていたので、フローはカズキに起こった悲劇を打ち明けられずにいた。彼らはヘアウェイブ・レコードの業務用ワゴン車に乗り込み、西へ向かい出発した。ヨコイは飛行船用のお菓子をすでに食べ始めた。これには苦言が呈された。TBOは誰も聴いたことがないようなマイナーなカントリー・パンクのCDをかけた。
 河川敷に到着すると、巨大な飛行船がワイアーに引っ張られ、ぷかぷかと浮いていた。
「オーナーの梶さんです」TBOが梶という男を紹介する。
「こんにちは梶です。皆さん、ようこそ」梶は飛行船を指差した。「あれがヒンデンブルク号です」皆が、思い思いの感想を口にする。
「わースゲー」
「なんじゃこりゃ」
「でかいなあ」
「飛行船見るの初めてだよ」などなど。それらは、想像力を欠いた実につまらないコメントだった。そんなことを口にするぐらいなら、何も口にしないほうがマシだ。
 そして、ヘアウェイブ達を乗せた飛行船は、ゆっくりと空へ舞い上がっていった。ふだんは想像力を著しく欠き、感性に乏しい彼らも、ある種の感動を覚えずにはいられなかった。川をさかのぼり、山を越える。すると、沈みかけた巨大な太陽が現れた。それは、熟れすぎたトマトのように肥大し、握りつぶされたかのように滴っていた。凝視しても、眩しさを感じることがなかった。それは地鳴りのような音を立てているかなように溶け出していく。もう滅びてしまう世界の、最後の夕焼けだ。
 そして、フローは、山の中腹を疾走する白い車に気づく。それは四角く、夕日に照らされ、ピカピカしている。頂上には、巨大な白亜の建造物が見える。それは夕日に照らされ、黄金に見える。カズキは、今その黄金の世界へ向かっている。この世界に住むすべての人々が、最後に行き着く場所なのだ。